カリ…
それを口に含み、ゆっくりと噛み砕く。
コキ…
軽い音をたてて、あっさりと砕けていく。
微かに重油と皮脂の焼けた匂いがする。
今、この世にある彼のすべて。
白磁の壷から、また一つ小さな欠片()をつまみ出す。
何の戸惑いもなく口に運ぶ。
カリリ…
乾いた音が暗い部屋に響く。
苦い味が広がるが、もはやそれを感じる事は無い。
むしろ愛しげに、最も大切な欠片を噛締()めて、自分の中に入れていく。
そうすれば、再び会えるような気がする。
あの人に…
葬儀はしめやかに終わり、縁者の居ない彼の遺骨は、四十九日が済むまでは童守寺に安置される。
無理を言い、分骨してもらった小さな壷を抱えて、ゆきめは自分の部屋に戻ってきた。
もはや意味の無いすべてが積まれた部屋に…
鵺野鳴介が心臓発作であっけなくこの世を去って、既に六日が過ぎかけていた。
尤も、そんな時間の経過を、ゆきめは感じることさえ出来なくなっていたが…
あっけなく、本当にあっけなく。彼はこの世から消え去った。
まるで、何時もの笑えない冗談の続きのように。
どんなにつまらない事でも、鵺野の口から語られるのであれば、ゆきめは屈託なく笑うことが出来た。
現に、最初飛び込んできた生徒から、彼の「死」を知らされた時。彼女は冗談と思って取り合わなかった。
しかし、只ならぬ取り乱し様と、彼の気配が消え去った事に気が付き、一気に絶望の中に叩き込まれたのだ。
ゆきめの時間はそこから止まっている。
あまりにも潔く。あまりにも淡々と。鵺野はこの世を後にして見せた。
彼が必死で封印していた鬼と共に、あっさりと…
せめて霊魂だけでも留まってくれたなら…
妖怪である自分にとって、肉体が無い事など、まったく関係ないはずなのに…
鵺野はどうして自分を置いていったのだろう…
頭では判っている。
この世に未練を残しすぎれば、存外簡単に魂はこの世に縛られる。
しかし、彼がそんな事をすれば、今まで恩師の力さえ借りて封じ込めていた鬼が、解放されるのだ。
彼がそれを良しとしなかったのは当然である。
そして、どうしたのかは判らなかったが、ものの見事に鬼と共に消えうせた。
彼の臨終に立ち会った生徒達や。
生前の彼と親しい者達は、みな等しく前夜から妙な気配を感じたという。
それは押しなべて暖かく、包まれるような優しさが篭っていた。
常の彼が人に与える優しさと同じ様に…
それは、鵺野の別れの挨拶だったのかもしれない。
しかし、何かに縋()るような鵺野の姿を見た者は、ゆきめ一人だけであった。
あの夜。いきなりの抱擁には、どんな意味が込められていたのだろう。
病院の霊安室。
遺体と二人で過ごした夜。
物言わぬ彼に、ゆきめは取りとめもなく語りかけていた。
昔の事、楽しかったこと。
そして訊ねたのだ。
死ぬことを貴方は知っていたのか?と。
最後の別れに、自分の下を訪れたのか?と。
ならば、どうしてあのまま抱いてくれなかったのか…と。
最後に与えられたぬくもりが、今はゆきめを追い詰めていく。
もはや失われたそれを求めて、狂おしいほど心が泣き叫ぶ。
しかしもう、涙は枯れ果てていた。
光を失った瞳には何も映らず、ただ虚ろに開かれている。
そして再び、口中から消えてしまった感触を求めて、白磁の壷に手を伸ばす。
まるで口づけするかのように厳粛に、鵺野であった欠片を噛締める。
水晶球から放たれる妙な波動に、玉藻はカルテから顔を上げた。
汚い字で「お前が最強だ」と走り書きされた水晶球()は、鵺野が愛用していたものである。
妙な気配がした夜、窓辺に置かれていた、故人からの形見分けの品らしい。
本人からはっきり聞いていないので、業と「らしい」と決め付けたのだが、ふと、時々、これをもつべき者は自分ではないのではないか?という気になることがある。
今だ「愛」の何たるかを理解しきれない自分に比べて、あの男への「愛情」なるものを、全身で表現する、もう一人の変わり者の妖怪こそが、本来の持ち主ではないかと感じるのだ。
鵺野の魂胆()は察しがついている。
後を任せてしかるべき実力を持った者として、玉藻を選んだのだ。
もちろん、変わり者の雪女はその保護範囲内に入るのだろう。
守られたいかどうかは別として。
迷惑な話である。
自分にも、時間はそう残されていないのだから。
世に災いを成す為に力を求めている、と公言してきた妖狐に、なぜこうも全幅の信頼を遣()したのか?
相変わらず鵺野の考えることは判らない。
まあ、もう二度と、理由()を聞くことは出来ない。
死した人間()と妖怪()が住む界()は違うから…
はじめは、あまりの身勝手さに腹が立った。
理由ぐらい話してから逝けと。最後に見た鵺野の背中に怒鳴りつけてやりたかった。
今も納得はしていない。
だから、水晶球は形見分けの品「らしい」物なのだ。
心に空いた虚無感の穴に、業と皮肉を詰め込んで、苦い笑みがこみ上げる。
妖怪()は死とは関係ない。そして、自分の獣である部分は、ごく自然に死を受け止める。
心臓が止まり、骸()となった。ただそれだけのこと。
何の感慨も、何の感傷も無い。
死期は自ずと感じ取れるし、何処に骸を晒そうとも、ただ土に還るだけ。
失われた仲間は、風の向こうで共にあり、それを悲しむ必要は無い。
だが…
胸の奥底には、空虚な洞()が空いている。
理由は判らない。
ただ、この原因が、鵺野鳴介という男の死だという事だけは判っている。
なぜ自分がこんな喪失感をもつのだろう? これは人が持つ感傷の筈なのだ。
かつて絶鬼が言ったように、自分はもう、人間の匂いをさせているのだろうか?
人化の術すら完成させていない自分が?
ただ、長く人間()と関わったというだけで?
あの男は自分に何をしたのだろう…
水晶球が再び妙な波動を発した。
何か嫌なものを孕んだその気配に、物思いから浮き上がる。
触りたくは無かったが、異常な妖気の発散に、思わず手にとって眺めてしまう。
持ち上げた水晶球()は、酷く冷たかった。
青味を帯びた光がぼんやりと放たれる。
発光する球の中で、うずくまるゆきめの姿が浮き上がって見えた。
「雪女…?」
玉藻は眉を寄せた。妖気があまりにも違っている。
水晶球が発する妖気は、酷く濁った、瘴気を含んでいる。
本来、鵺野が霊力の媒体として使っていた水晶球が、なぜこんな映像と妖気を自分に見せるのか?
訝しく思いつつ、球の中を観察する。
不意に、球の放つ光に、赤い色が加わった。
――!?…そういう事ですか…鵺野先生――
変化した映像を睨むようにしながら、玉藻は思わず苦笑していた。
白い欠片をゆっくりと舌に絡める。
小さな軽い欠片は、かすかに軽い音をたてて口内を転がる。
ゆっくりと殊更ゆっくりと舌で嬲()りながら、一度だけ受けた深い愛撫の記憶をなぞる。
そして、ほんの少しの恨みを込めて噛み砕く。
愛しい欠片を丁寧に粉にして、うっとりと飲み下す。
細い喉がこくんと動く。
恍惚とした薄い微笑みを浮かべて、しばし体内を流れていく感触に酔う。
今はこれだけがゆきめの全て。
この行為だけがこの世にある目的。
この瞬間だけが至福の時。
自分の中に、ゆっくりと恋人が染み込んでくるのだから…
水晶球の導くままに、玉藻がたどり着いた場所は、『カーサ大雪』と銘打たれている。
ゆきめの住む賃貸マンションである。
玉藻には初めて来る場所だ。もとより、雪女が何処に住んでいようと、彼には関係なかったのだから。
だが、今玉藻は、不本意ながら、ここに関わらねばならないらしい。
車を停め、不機嫌を隠しもしないで、その建物を見上げる。
真夏の空気を押しのけて、重苦しい妖気と冷気に包まれ、カーサ大雪は氷の城と化していた。
思わずため息が漏れる。
――鵺野先生…とんだ置き土産をしてくれましたね――
入り口のポストでは、ゆきめの部屋の確認は出来なかった、おそらく鵺野の指示だろう。雪女に、一人暮らしの女の用心があるとは思えない。
一階より上の部屋らしいのも、男の配慮かもしれない。
大雑把でいい加減に見えて、案外心配性な鵺野が垣間見えて面白い。あの男にとって、雪女は、正に掌中の珠だったのだろう。
「御守のバトンタッチまではしませんよ」
良いように使われている気がして、面影に反発し一人ごちる。
ダイヤモンドダストが舞い上がる廊下を、妖気の源を捜して歩く。
既に分厚い氷洞と化した通路は照明さえ消えて、不気味な黒い穴となっている。
――雪女の部屋は、もっと上か…――
凍り付いて動きそうに無いエレベーターホールを通り過ぎ、階段に足をかけたとき、上の方で何かが動いた。
歪んだ妖気がじわりと動く。
重く瘴気を含んでいながら、敵意の無い奇妙な妖気。
だがその中に、蟠()るような絶望感が感じられる。
絡みついてくるそれに眉を寄せながら階上に上がると、背後に動く物の気配を感じ振り返る。途端に声が浴びせられた。
「あそぼう!」
「何?」
そこには4〜5歳の男の子が立っていた。
水色の髪にげじげじの眉毛が印象に残る。ネクタイをしたワイシャツを羽織、大きなスニーカーという妙な格好の幼児は、陽神明()に酷似した顔をしている。
そう、その幼児は、鵺野鳴介を幼くしたような顔なのだ。
一瞬彼の忘れ形見かと思ったが、大きな目でじっと見つめる子供からは、一切の生気は感じられない。
辺りに漂う妖気と同じ気配を発している。
ふと、雪女の性質を思い出し、合点がいった。
――雪童()か…想い人の姿をとらせた…という訳だな――
「あそぼう?」
雪童が再び訊ねてくる。
玉藻はゆっくりと首を振った。
「君と遊んでいる暇はありません。雪女は何処です?」
遊ばないという答えが不満らしく、雪童は「むー」と唸りながら、地団太を踏む。
「あそぼう!!!」
殊更大きな声で叫び、同時に冷気を吹きかけてくる。
咄嗟に首さすまたを振り、冷気を分散させる。雪童にはそれも不満だったらしい。
口を尖らせ頬を膨らませて、ぴょんぴょんと跳ね始めた。滑りやすい氷に覆われた床など意に介せずに、奥に向かって跳ねて行く。
油断なく周囲を探りながら雪童の後を追いかける。その前方、氷に覆われながらも、かろうじて命を綱いでいる非常灯の光の中に、ぼんやりと人影が浮かび上がる。
飛び去る雪童をひとまず見逃し、人影に近づく。
弱々しい気配は、それがあたり前の人間であると教えている。近寄ればはたして氷柱にされた男であった。
驚愕の表情をそのままに、逃げようと身体を捻った妙な体勢で、男の時間は止まっている。
幽かに閉じ込められた生気を感じ、死に至っていないことを確認する。それでも、この状態では長くは保つまい。
男の側には、開きかけた扉があった。覗き込めば、家人と思える男女がきょとんとした顔で凍り付いていた。何が起こったのかまったく把握していないであろうその姿に、出来の悪いマネキン人形を連想する。
妖気を探る意識を振り分けて、住人達の生気を探る。
どれ一つとして自由の身の者は居ないが、誰の命も失われては居ない様だ。
まだ救いはある。
時間の問題なのは変わりないが…
踵を返し、玉藻はまっすぐに階段を目指した。
図らずも住人の生気を探ったおかげで、雪女の居場所が判った。
星が明滅するかのごとき命のゆらめきの中にあって、唯一、全てを吸い込むような暗い洞()が見えた。いや、吸い込むのではない。その洞からは妖気と瘴気が吹き上げられていた。
光も吸い込み、瘴気を吹き出すその洞に、自分の心に空いた虚無の穴と同じ物を感じる。
鵺野鳴介という男の存在の重さを、改めて思い知らされた。
何故神は、使命も志も半ばにして、あの男の命を奪ったのか? 迷惑をする者がこれだけ居るというのに。
それともこれは、神が仕掛けた悪質な冗談なのだろうか? 死を司る北斗の神と、生を司る南斗の神が、終わりの無い碁戦を繰り返す如く。至高の存在は、時として己が創造物を気まぐれに翻弄する。
玉藻が、自分の胸だけに納めている不条理な現象は、その事を如実に顕していた。
鵺野鳴介の死因である。
横死した男の検死解剖の担当を、知人であることを楯に敢行した彼は、胸部切開をして絶句した。
何故なら、鵺野の心臓は、鎌で切られたように、すっぱりと二分されていたのだ。
即座に連想したのは、鵺野が今まで関わってきた霊障の数々。妖怪()との対立も数多く、何かしらの報復を受けたのか、という事である。
粘り気を帯び、沈殿し始めた血溜りに浮かぶ二つになった心臓へ、怒りに震える手を伸ばす。復讐の方法が百は浮かんだ。
鋭利な刃物で切られたとはっきり判る切り口に触れた途端、力の残滓に、再び息を飲む。 妖気ではない、むしろ清い。
絶対的で清廉な力と意思が、玉藻に戦慄を与える。 鵺野は神に殺されたのだ。
そう直感した。
死神は大鎌を振るって命を刈るという。この心臓はその為なのか
しかし、肉体を破壊してまで、無理やりに連れて行くとは、どういう事なのか? 何故、それが必要だったのか?
常に白衣観音の慈愛と救済を信じ、誰よりも心を尽くして人々を守ろうとしてきた男への、これが回答なのだろうか。
今更如何する事もできず、鵺野の死が、他者に掻き回されるのを嫌って、検死報告書には『心臓発作』と書いた。
世間はそれで収まっても、玉藻の腹の中が納まる筈は無い。
飲み込むには苦くて大きな塊。答えが無い故に、白熱しながら、持って行きようの無くなった怒りの凝縮。その熱が、胸の虚無に更なる穴を穿つ。
鵺野の生も死も、神の掌()の上にあった。
死者の顔は、眠っているかのように穏やかで、鵺野は全てを承知して、己が運命を甘受したのだと思われた。
己を殺す神の暴挙を、唯々諾々と受け取ったのだ。抗う術などなかったのだろう。
それとも、やはり、全ては悪質な冗談なのか?
神が嘘や冗談を言わ無いとは限らない。
もしひょっこり鵺野が通路の影から現れたら、その場で殴ってやろうと心に決める。せめてもの腹いせに…
自らも妖狐の最高位に属し、権現と奉られる存在であるにもかかわらず、玉藻は、運命を司る理不尽な不文律へ完全に腹を立てていた。
苛立ちは、階上から吹き出された冷気へ、とっさに放たれた狐火に込められる。
灼熱の火輪尾の術よりは多少押さえた炎であるのが、かろうじて踏みとどまった成果であった。
狐火は冷気と反発して凄まじい水蒸気と風を巻き起こす。それでも、通路に張り付いた分厚い氷の表面を、わずかに溶かした程度であった。
白い煙はすぐさま微細な氷の粒に変化して、きらきらと非常灯の光を反射する。そのダイヤモンドダストを突っ切って、玉藻は通路に踊り出た。
「「「「あそぼう!!!」」」」
周囲から、無数の声が、ひとつの単語を叫ぶ。
通路の奥、はたまた壁、天井、床。それらに張った氷の中から、わらわらと小さな影が現れる。
――まったくもって、迷惑だ――
期待に満ちた瞳に取り囲まれ、苦々しく眉間に皺を刻む。
首さすまたを構えて、周囲に狐火を数個浮かべていながら、それ以上手出しのできない自分に歯噛みする。
いくら雪女の冷気が凝り固まって形作られたものであっても、邪気も無く、稚()い子供の姿を持つ者へ、業火や刃を振り下ろすことが出来ない己に、今になって気がついたのだ。
かつて、鵺野が陥ったジレンマを周到しているとは知らずに、雪女が篭る暗い闇を睨みつける。
「子供を使うのは、女の常套手段だな…」
陳腐な台詞と判っていても、つい口に出る
鵺野や自分と同等とはいかないまでも、その傍らに立ち、脇を固める事のできる実力を持った雪女に、早く正気に返ってもらいたいものだ。でなければ、被害が大きくなる。
「どきなさい。君達に付き合っている暇は無い」
言っても無駄なのは判っている。案の定、雪童達は一斉に不満を表明した。
「「「「「むーーーー!!!」」」」」
四方から冷気が吹きかけられる。
咄嗟に狐火の数を増やして周りに回転させ、熱気の防壁を作り出す。先ほどよりも数段激しい爆発が起こり、半数以上の雪童が爆風に巻き込まれて宙に舞う。
「きゃ〜〜はははははは」
うれしそうな悲鳴をあげて、吹き飛ばされはするものの、流石に熱風に煽られた体がとろりと溶ける。融けかけた雪童は、氷の壁に飛び込んでいった。
無残な姿を垣間見て、一瞬胸の辺りに鈍痛が走る。ぐっと奥歯を噛締め、つまらない感傷に引き摺られかける自分を嘲笑う。
――妖狐玉藻が、ずいぶん御優しくなったものだ…――
狐火に赤く映える錦糸()の髪を爆風の余波に弄らせながら、米神を一滴の汗が伝う。激しい打ち合いどころか、たった一歩も踏み出さないうちに、彼の息は上がり、肩で大きく息をしている。肉体的な疲労ではなく、精神の消耗故だった。
意外な保護意欲との葛藤ではなく、ましてや、無残な雪童への罪悪感の所為でもない。
鋭敏な感覚を引きずり込む、目の前に穿たれた洞と、己の心に空いた虚無の穴との共鳴故だった。
失われたたった一人を求めて、虚ろな虚空から二重の悲鳴が聞こえる。
一つは朋を求め、一つは魂の半身を求めて。
同じ痛みが撃ち込まれているのが判る。形は違えども、共に掛け替えの無い存在を失ったのだから…
だが今、自分がその共鳴に呑まれる訳にはいかない。
目を閉じ、一度大きく呼吸する。
「罷()り通る」
己に言い聞かせるように宣言し、狐火の防壁を纏い、ずいと体を前に押し出した。
先ほどの爆発に恐れをなしたか、熱気の危険を本能的に悟ったらしい雪童の生き残りは、きゃいきゃいと意味不明の叫び声を口々に発しながら道をあける。
少し脅えた目を尻目に、玉藻はゆっくりと歩を進めた。
と…半分融けかけた手が床から伸び、白衣の裾を掴む。
「…あそぼうよぉ…」
氷の中に入り込んだ雪童が、か細い声をあげる。
勤めて冷徹にしていた目がふと緩んだ。
「冬が来たら…遊んであげますよ…」
氷の中の顔が一気に明るい笑顔になる。同時に回りの雪童達も跳ね飛び始めた。
「「「ふ〜ゆ、ふ〜ゆ、ふ〜ゆ。あそぶ〜〜〜」」」
雪童達の合唱が渦を巻く。出来る筈の無い約束をした男は、もはやそれらに構わず、目的の扉を目指して進んでいく。
喪失前編 了
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